HISTORICAL PERSON · 2021年没

デズモンド・ムピロ・ツツ

南アフリカの聖公会司祭・人権活動家。黒人男性として初めて主要な聖職の地位に就き、神学と政治の両面で活動した。

生涯
2021年没
死亡地
南アフリカ共和国(西ケープ州 / ケープタウン)
出生地
南アフリカ共和国(マンシーヴル)
出典
世界地図
南アフリカ共和国(西ケープ州)

伝記

デズモンド・ムピロ・ツツは、1931年10月7日に生まれ、2021年12月26日に没した南アフリカの聖公会司祭であり、神学者、人権活動家である。アパルトヘイト(人種隔離政策)に対する抵抗運動で知られ、黒人男性として初めてヨハネスブルク主教とケープタウン大主教に叙任された。

コーサ人の父ザカリアとモツワナ人の母アレンのあいだに生まれ、家庭ではコーサ語が使われた。父はメソジストの小学校の校長で、一家は貧しかったが、ツツ自身は後年「裕福ではなかったが、極貧というわけでもなかった」と述べている。生まれつきポリオを患って右手が萎縮し、深刻な火傷で入院したこともあった。ムピロ(命)という名は父方の祖母が与えたもので、姉シルヴィアはそう呼んで彼を可愛がった。父を慕う一方、父が大酒を飲んで母を叩くことには怒りを覚えていた。1941年頃に母がヨハネスブルクで働くため移り、ツツも同行した。読書を愛し、12歳で堅信を受け、1945年にバントゥー高校に入ってラグビーを生涯愛するようになった。1947年には結核で18か月入院し、その間は読書に明け暮れた。

医者を志して入学権を得たが、授業料を払えず教職に進み、1951年に政府奨学金でプレトリアの教員養成大学に入った。会計係や討論協会の会長を務め、討論会で将来の大統領ネルソン・マンデラと初めて出会ったが、再会は1990年のことである。1954年に高校の英語教師となり、1955年7月にノマリゾ・レアと結婚した。ところが1953年に導入されたバントゥー教育法を夫妻は嫌い、教職を辞めた。ツツは聖公会の司祭を目指し、ヨハネスブルクの聖ペテロ神学校で学んだ。債務を理由に叙階候補者組合への参加を拒まれたが、実業家ハリー・オッペンハイマーが債務を肩代わりした。シャープビルの虐殺があった1960年3月当時、研修生たちは反アパルトヘイト活動を支援せず、ツツは後に「私たちはある意味で非政治的な一団だった」と記している。1960年12月に司祭に任命され、ベノニの聖アルバン教区の協力牧師として妻子と暮らした。1962年にキングス・カレッジ・ロンドンで神学を学ぶため英国へ渡った。1966年に帰国して教職に就き、1972年には神学教育基金のアフリカ担当理事となった。

1975年に南アフリカへ戻ると、反アパルトヘイト運動で積極的な役割を果たした。1978年から1985年まで南アフリカ教会協議会の総書記を務め、最も著名な反アパルトヘイト活動家のひとりとなった。国民党政府にはアパルトヘイトが人種的暴力につながると警告したが、活動家としては非暴力抵抗と、外国からの経済的圧力を重視した。1985年にヨハネスブルク主教、1986年にケープタウン大主教となり、女性司祭の導入を監督した。

マンデラが1990年に釈放され、デクラーク大統領とアパルトヘイト終結を交渉したのちは、新政府を支持し、競合する黒人組織の仲介役も果たした。マンデラはツツを、過去の人権侵害を調査する委員会の議長に選んだ。アパルトヘイト崩壊後は同性愛者の権利を訴え、パレスチナ紛争やイラク戦争に反対し、ムベキ、ズマ両大統領も批判した。2010年に公職を退いた。支持者からは広く慕われ、ノーベル平和賞を含む多くの賞を受けたが、アパルトヘイトの支持者には嫌われ、白人リベラルの多くは過激すぎるとみなし、共産主義者は反共的な立場を非難した。自身の説教や発言を複数の本にまとめている。

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