伝記
ムハンマド・フセイン・タンターウィーは、1935年10月31日に生まれ、2021年9月21日に没したエジプトの軍人、政治家である。最高位の陸軍元帥にまで昇り、ムバーラク政権で国防大臣と国軍総司令官を務めた。2011年のエジプト革命後には軍最高評議会議長として、国家元首の職権を代行した。
ヌビア系の出身とされ、1952年に陸軍士官学校に入り、1955年4月1日に歩兵の将校に任官した。1956年4月1日に一介の歩兵として軍歴を始めたともいわれる。同年の第二次中東戦争(スエズ動乱)には歩兵小隊長として従軍した。1961年に少佐に昇進し、北イエメン内戦ではイエメンで歩兵中隊を率いたとされる。1967年の第三次中東戦争では機械化歩兵大隊長、1973年の第四次中東戦争では中佐として第16機械化歩兵大隊を指揮し、消耗戦争にも加わった。1983年から1985年までパキスタン駐在武官を務め、帰国後は機械化旅団長、師団長を経て、少将として1986年から1989年まで第2野戦軍を指揮した。1989年から1991年は大統領親衛隊の司令官であった。
1991年の湾岸戦争では、多国籍軍の一員としてエジプト軍部隊を率いた。同年5月、前任の将軍が解任されたのを受けて、国防・軍需生産大臣兼国軍総司令官に就任した。1993年には、エジプト軍で最高位の元帥に昇進したとされる。以来長く閣僚を務め、ホスニー・ムバーラク大統領の側近として知られた。1995年6月のムバーラク暗殺未遂が成功していれば、後継になっただろうともいわれる。
2011年1月に反政府デモが拡大してエジプトが騒乱状態になると、ムバーラクは1月29日に首相を更迭してアフマド・シャフィークを後任に任じた。1月31日のシャフィーク内閣発足で、タンターウィーは国防・軍需生産大臣のまま副首相も兼ねることになった。しかし退陣要求は収まらず、軍高官からなる最高評議会が招集されて、タンターウィーが議長となった。2月10日、評議会はムバーラクを抜きにして協議を始め、国民を守るための協議を続けていると発表した。これは軍が政権と距離を置き、民衆側へ歩み寄って事態を収めようとする動きであった。翌11日、評議会は民主化を確約する声明を再び出し、ムバーラクは権限を評議会に移して退陣した。これによりタンターウィーが国家元首代行となった。その間、米国のゲーツ国防長官と電話会談を重ね、軍がムバーラクを支持していないことを伝えたとされる。
評議会は議会を解散し、暫定憲法改正の国民投票を3月19日に実施し、ムバーラクら旧体制の要人を訴追の場に立たせる手続きも進めた。本人は表に出ることが少なく、首相にはイサーム・シャラフを任じた。2011年11月にタハリール広場などで警察の実力行使により33人以上の死者と2千人を超える負傷者が出ると、テレビで大統領選挙を早めると約束し、民意があればただちに権力を返すと述べた。一方、広場では退陣を求めるシュプレヒコールが上がり、批判も多かった。
2012年6月30日、ムハンマド・ムルシーが大統領に就任して国家元首代行を退いた。ムルシー政権の内閣でも国防大臣に留まったが、8月12日に国防大臣と軍最高評議会議長を解任され、大統領顧問となった。解任に際して、エジプト最高の勲章であるナイル勲章を授与された。2021年9月21日、カイロの病院で85歳で死去した。
礼儀を重んじる叩き上げの軍人として軍内の信頼が厚かったと報じられた一方、アメリカ側にはムバーラク体制の延命を図るのではないかとの懸念もあった。
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