HISTORICAL PERSON · 2021年没

ケネス・カウンダ

ザンビアの初代大統領。1964年から1991年まで在任し、周辺国の独立を支援した。一党制を敷いて独裁を批判され、1991年に複数政党制選挙で退任した。

生涯
2021年没
死亡地
ザンビア共和国(ルサカ州 / ルサカ)
出生地
ザンビア共和国(チンサリ)
出典
世界地図
ザンビア共和国(ルサカ州)

伝記

ケネス・カウンダは、1924年4月28日に生まれ、2021年6月17日に没したザンビアの政治家である。1964年から1991年まで、独立後のザンビアの初代大統領を務めた。イニシャルから「KK」の通称でも知られた。

生まれたのは、当時イギリス領だった北ローデシア北部チンサリのルブワ伝道所である。父デヴィッドはニヤサランド(現マラウイ)出身のスコットランド長老派教会の牧師・教師で、母ヘレン・ニーレンダも教師だった。母は植民地期の北ローデシアで教壇に立った最初のアフリカ人女性とされる。8人きょうだいの末っ子で、父は幼い頃に亡くなった。1941年から1943年までルサカのムナリ訓練所で学び、教師となった。ルブワの学校で教え、のちに校長も務め、タンガニーカや南ローデシアでも働いた。1948年にはムフリラで教え、スカウトの指導や教会の聖歌隊も担った。若い頃に読んだマハトマ・ガンディーの著作は「心に直接届いた」と語っている。

政治に入ったのは1949年頃で、北ローデシア・アフリカ民族会議の創立に関わった。1953年にルサカへ移って事務局長となり、議長ハリー・ンクンブラのもとで、ローデシア・ニヤサランド連邦に対する運動を進めた。1955年には扇動的な文書を配ったとして、ンクンブラとともに2か月の重労働刑を受けた。やがてンクンブラと袂を分かち、1958年10月にザンビア・アフリカ民族会議を結成したが、翌年禁止され、9か月の禁固刑を科された。獄中のあいだにマインザ・チョナらが統一民族独立党を創設し、1960年1月に釈放されたカウンダが党首に選ばれた。1961年7月には北部州で市民的不服従の運動を指導した。1962年の選挙を経て連立政府に入り、1964年1月の選挙で統一民族独立党が勝って首相となった。そして1964年10月24日、独立したザンビアの初代大統領に就任した。

大統領としては、欧米資本が握っていた鉱山などを国有化して社会主義的な政策を進め、タンザニアのニエレレ大統領とともに中国の支援を得てタンザン鉄道を建設した。1970年代前半までは主力の銅の輸出が好調で経済も潤った。1972年には統一民族独立党以外の政党を禁じて一党制を敷き、中国の人民服に似た「カウンダスーツ」を愛用した。外交では汎アフリカ主義の指導者の一人として、ジンバブエやアンゴラ、モザンビークの独立を支援し、南アフリカのアフリカ民族会議も支えた。サッカー代表の強化にも力を入れ、チームは「KKイレブン」と呼ばれた。

だが1973年のオイルショックと1980年代の銅価格の暴落でザンビア経済は行き詰まり、汚職への不満も高まった。1991年に複数政党制の選挙が行われ、複数政党制民主主義運動のフレデリック・チルバに敗れて、11月2日に退任した。1992年に党首も辞した。この新政権はカウンダを敵視し、国籍要件の変更で再出馬を不可能にしたため、統一民族独立党は1996年の選挙をボイコットした。1997年のクーデター未遂事件では容疑者として逮捕され、のちに釈放された。国籍は一時失われたが、数年後に決定が覆されたとされる。1993年には代表チームの輸送機がガボン沖に墜落する事故があり、報せを聞いたカウンダは取り乱したといわれる。1999年に息子ウェジが殺害されたことなどから2000年に政界を引退し、1986年にエイズ関連の病気で息子マシジョを亡くしていたこともあり、HIV感染防止の活動に取り組んだ。2021年6月17日、ルサカの病院で97歳で亡くなった。

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