HISTORICAL PERSON · 1701年没

ジェームズ2世 (イングランド王)

イングランド・スコットランド・アイルランドの国王で、3王国最後のカトリック君主。名誉革命で王位を失い、支持者はジャコバイトと呼ばれた。近年は従来の悪役像の見直しが進む。

生涯
1701年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / サン=ジェルマン=アン=レー)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

ジェームズ2世は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王である。スコットランドではジェームズ7世と呼ばれ、1685年2月6日から1688年まで在位した。1633年10月24日に生まれ、1701年9月16日に没した。三つの王国にとって、歴史上最後のカトリック信徒の国王となった。長らくカトリックの絶対王政を目論んだ悪役として描かれてきたが、近年は研究によりその像が見直されつつある。

チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの子として生まれた。兄にチャールズ2世がいる。ルイ14世は母方の従弟、のちのウィリアム3世は甥にあたる。1640年、7歳のとき清教徒革命が始まり、一家は王党派の拠点オックスフォードへ移った。1644年に11歳でヨーク公に叙せられた。内戦は国王側の敗北に終わり、1646年にオックスフォードが陥落すると、セント・ジェームズ宮殿に監視つきで幽閉されたが、何度も脱出を試みた。1648年、15歳のときに長老派の一人バンプフィールドの助けを得て、女装してオランダのハーグへ逃れた。

1649年に父が議会派に処刑されると、王党派は兄チャールズを次の国王に推した。兄はスコットランドとアイルランドでは王と認められ、1651年にスクーンで戴冠したものの、共和政のイングランドでは王位を得られず、スコットランドもクロムウェルに制圧され、一族はフランスへ亡命した。ジェームズはフランスでテュレンヌ将軍のもとで軍人として生計を立て、フロンドの乱では反乱軍と戦った。1656年からは兄とともにスペイン軍のコンデ公ルイ2世に従って転戦し、1658年の砂丘の戦いでは、かつての上官テュレンヌ率いるフランス軍と戦った。

1660年にクロムウェルの死後に護国卿体制が崩れると、チャールズ2世がブレダ宣言を発して王位に就き、ジェームズも故国に戻った。兄には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが推定王位継承者となった。同年9月、兄の腹心エドワード・ハイドの娘アンと結婚した。ヨーク公に加えてオールバニ公と海軍総司令官の称号を得て、英蘭戦争に関わり、サミュエル・ピープスと組んで海軍の再建に尽くした。1665年のローストフトの海戦ではオランダ艦隊に大勝したが、1672年のソールベイの海戦で敗れ、翌年に海軍総司令官を辞した。1664年に占領されたオランダ領ニューネーデルラントは、ニューヨークと改称されてジェームズに与えられた。

ヨーク公がカトリックに改宗したのは、1668年から1669年ごろと考えられている。信仰への疑念は広がり、1673年に議会が改正審査法を成立させると、役職に就く者は化体説の否認などを求められた。ジェームズはこれを拒んで海軍総司令官の職を辞し、改宗は公然の秘密となった。兄は転向に反対して子らをプロテスタントとして育てるよう命じたが、1673年にはカトリックのメアリー・オブ・モデナとの再婚を許した。1678年のカトリック陰謀事件を機に、王位排除法案が議会に提出されたが、廃案となった。ジェームズはスコットランドへ移り、カヴェナンターを弾圧した。

1685年、兄の死でジェームズは51歳で王位を継ぎ、4月23日に戴冠した。モンマスの反乱は鎮圧されたが、常備軍の設置を検討したことが議会の反発を招いた。カトリック信徒の高位公職への登用や、ローマ教皇大使の受け入れ、国教会信徒の罷免は、プロテスタントの支配層の怒りを買い、支持層のトーリーとも溝を深めた。王子の誕生を引き金に名誉革命が起き、ジェームズは廃位された。

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